特別展

アートでつながる―東南アジアの美術グループ

期間
2016年10月6日 (木) 〜 2016年12月25日 (日)
会場

アジアギャラリー

アーティストは「孤高の天才」というイメージがありませんか?ときとして彼らは、美術に対する考え方や価値観を同じくする人々とグループを作り、お互いにアイデアや情報を交換したり、展示の機会を共有することでその才能を磨いてきました。

とくにアジアでは、自由な作品発表の場所など長らくアートにおけるインフラが整っていなかったため、作家どうしのネットワークが制作を継続するうえで、とても重要な役目を果たしてきました。戦争や内紛のため制作の材料が入手できなかったり、公的な美術館のサポートが十分でなかったり、さらには検閲による表現への規制など、さまざまな不自由を抱えてきたのです。こうした環境のもと、アジアには多数の美術グループが誕生し、有効なネットワークが形成されてきました。その活動は、スペースを持って活動するものから、一過性のイベントやパフォーマンスが中心のもの、社会運動とともに盛り上がりを見せるものや、世代を超えて受け継がれるものまで様々です。これらの活動からアジアならではの、ダイナミックなアートと社会の関係を垣間見ることができます。

本展では、東南アジアの6つの現代美術のグループと、そのメンバーによる作品を紹介したいと思います。

 

ガンゴー・ヴィレッジ・アート・グループ (ミャンマー)1979年-

ミャンマー最初期の現代美術グループとして、1979年にラングーン文理科大学(現ヤンゴン大学)の、美術クラブに参加していた学生や卒業生20人ほどが中心となって設立しました。グループ名は、大学内にガンゴー(和名:セイロン鉄木)の木がたくさんあったことから付けられています。発足当時は社会主義独裁体制下で、国有化された貿易公社が文房具や画材の販売を独占しており、美術展へ参加するのにも国からの許可が必要でした。このような困難な状況のもと、ともに支えあうことを目的に、年に1度のグループ展が開かれました。
1988年から1999年までの間は、学生を主体とした民主化運動への弾圧が激しさを増したため、大学を拠点とした活動は休止を余儀なくされます。その後2000年から再開し、現在に至るまでミャンマーの実験美術を支える重要なグループとして活動を続けています。

 

ブラック・アーティスツ・イン・アジア (フィリピン)1986年-

フィリピンのビサヤ諸島におけるアートの拠点として1986年に発足しました。80年代に左翼反体制運動に関わっていた作家たちが、マルコス政権の崩壊をきっかけに、より地域に根ざした問題に関心を注ぐようになります。その頃、彼らの住むネグロス島は、世界有数の砂糖産業の中心地であり、そこで働く小作農と地主との経済格差が深刻な社会問題になっていました。メンバーは、貧しい人々の立場を代弁する、政治色の強い作品を数多く制作しました。ネグロス島という名前は、むかしネグリト(スペイン語で「小柄で黒い人」の意)と呼ばれる少数民族が住んでいたことに由来します。グループ名のブラックは、この飢餓に直面する島の名前と、社会的に周縁化され、抑圧を受ける人々へ目を向けるために付けられました。

設立メンバーのヌネルシオ・アルヴァラード(1950年-)とチャーリー・コー(1960年-)の作品は、現在、コレクション展「タイム・トラベル-美術で知るフィリピン」にて展示中です。あわせてご鑑賞ください。

 

アーティスツ・ヴィレッジ (シンガポール)1988年-

イギリス滞在を経て1987年に帰国したタン・ダウ(1943年-)は、仲間とシンガポール北部センバワンに、制作や展示のための理想郷的な村を作りました。そこでは、シンガポールの急速な都市化を背景に、社会の変化や問題をいち早くとらえた啓発的な作品制作やパフォーマンス活動が行われ、多いときには35人ものアーティストたちが滞在しました。東南アジア美術の中でも特に重要なこの美術グループは、しかしながらスタートからわずか2年で、政府の都市開発のため立ち退きを強いられます。その後は、様々な場所でイベントなどを継続して行うことで、そのネットワークを次の世代のアーティストたちに引き継いでいます。

 

ニャサン・スタジオ (ベトナム)1998-2010年

1980年代後半、市場経済システムの導入とともに、急激な経済成長を迎えたベトナムでは、美術の評価も市場の影響を大きく受けるようになります。そういった状況に行き詰まりを感じたチャン・ルーン(1960年-)とグエン・マン・ドゥック(1949年-)は、1998年に実験的な美術の拠点としてニャサン・スタジオを設立しました。ニャサンはベトナム語で「(高床式の)家」という意味で、ドゥックの家をスタジオおよび展示スペースとして用いたことから名付けられました。検閲制度が続くベトナムにおいて、今までにない新しい表現が試行されましたが、公共の場での裸体パフォーマンスがメディアなどに大きく取り上げられ、スペースは政府より強制的に閉じられます。その後、ドゥックの娘をはじめとした若い世代のアーティストたちによって新たにニャサン・コレクティブ(2013年-)が結成され、実験的な精神は受け継がれてゆきます。

 

インドネシア・ニュー・アート・ムーブメント (インドネシア)1975-1989年

1974年、インドネシア美術アカデミー(現在のジョグジャカルタ美術学校)の学生5人が、第1回インドネシア絵画展で装飾的な作品のみが入賞したことに失望し、会場に「絵画は死んだ」として追悼の手紙と花輪を送るという事件を起こし、参加したFXハルソノ(1949年-)らはアカデミーを退学処分になります。
これを知ったサネント・ユリマン(1941-1992年)と彼の教え子であるバンドゥン美術学校の学生たちは、FXハルソノたちとの交流をはかり、これを機にジョグジャカルタとバンドゥンの学生たちによるインドネシア・ニュー・アート・ムーブメントが立ち上げられます。彼らは展覧会を開催し、これまで具象的な絵画や彫刻が主であった視覚芸術に、抽象的なモチーフを持ち込んだり、空間全体を使ったインスタレーションや、光や音などを発する新しい表現を展開しました。学生運動の盛り上がりとも重なって1979年にはメンバーは50人ほどに膨らみました。展覧会の図録の中でマニフェストを発表したり、美術批評雑誌『ダイアローグ・ジャーナル』を刊行するなど、当時の美術の流れを力強く牽引しました。

 

ルマ・アイル・パナス (マレーシア)1997年-

公立の美術館や商業ギャラリーが主導的な役を果たしてきたマレーシアの首都クアラルンプールにおいて、1990年代に入ると自立した(政府に頼らず商業的でもない)スペースを運営する作家たちが登場し、社会的な観点から多民族の問題や消費文化などをテーマに制作を行うようになります。
1997年、リュウ・クンユウ(1960年-)らによって実験的な表現を探求する場が作られました。温泉で有名なセタパッ地区に位置したことから、ルマ・アイル・パナス(マレーシア語で「熱い水の家」)と名付けられ、2006年までアーティストたちのスタジオや展示スペースとして機能しました。また、地域に根ざしたワークショップを開催するなどユニークな活動を継続して行い、現在もグループとして連携を保っています。