特別展

日韓近代美術家のまなざし─『朝鮮』で描く

期間
2015年12月17日 (木) 〜 2016年2月2日 (火)
会場

企画ギャラリー

本展は、20世紀前半の日本と韓国の美術、そして美術家どうしの交流に焦点をあてた展覧会です。日本による朝鮮半島の統治という社会的矛盾に満ちた「近代」において、日韓両国の美術家たちは、自らをとりまく世界の限界や苦難、葛藤を抱えながらも、それを超えようとするまなざしをもち、豊かな表現活動を行いました。藤島武二や山田新一、荒井龍男、山口長男、浅川伯教・巧など、韓国にゆかりの深い日本近代美術を代表する作家たち。高羲東[コ・フィドン]や李仁星[イ・インソン]、李仲燮[イ・ジュンソプ]、金煥基[キム・ファンギ]、李快大[イ・クェデ]など、日本との交流をもつ韓国近代美術の巨匠たち。彼らの代表的な作品に加えて、これまでほとんど注目されてこなかった戦前の在「朝鮮」日本人作家の作品なども、最新の研究成果をふまえてご紹介いたします。

 

1、「朝鮮」との出会い
「朝鮮」を訪れた日本の美術家は、「朝鮮」の風俗をどのように表現しただろうか。泉での水汲みや、ものを頭に載せる女性のすがたをはじめ、伝統的生活様式に根ざす風俗が叙情ゆたかに描かれた。だが牧歌的に理想化された情景は、一方で「朝鮮」は前近代的な地だという、現実とは異なるイメージを固定してしまうはたらきももった。
伝統衣装を身につけた異国情調あふれる女性像、特に妓生(キーセン)と呼ばれる芸妓像は、艶麗なモティーフとしてエキゾティックな室内調度とともに好んで描かれた。華やかなイメージにもかかわらず、そこに、描く男性と描かれる女性、支配する日本と支配される「朝鮮」という、社会的、政治的な関係の反映を指摘することもできる。
工芸では、楽浪遺跡の発掘調査(1909年着手)に伴い古代の朝鮮半島に対するロマンティシズムが誕生。柳宗悦の称揚により「李朝」陶器のブームも生まれたが、韓国の美を「悲哀」という言葉で解釈する点には限界もあった。「朝鮮」の窯で「朝鮮」の陶工と制作を試みる工芸家もいたが、「朝鮮」の地に根ざした工芸の復興に直接結びつくものではなかった。

 

2、近代「朝鮮」の風景
朝鮮王朝の都・漢城(ハンソン、現・ソウル)は、四つの大門と四つの小門をもつ城壁を周囲にめぐらせる。風水地理説に基づき、王宮・景福宮(キョンボックン)の背後には主山・北岳山(プガクサン)が玄武の位置にそびえ、駱駝山(ナクタサン)、仁旺山(インワンサン)、案山南山(アンサンナムサン)、がそれぞれ青龍、白虎、朱雀にあたる、四神相応の地形をもつ。日本から来訪した画家は、「京城」の王宮建築、城門などの名所旧跡や、牧歌的な田園風景に眼をひきつけられているが、移住して「朝鮮」に生活の基盤を根付かせた日本人美術家の眼は異なる。仁旺山をはじめこの地の伝統的画題を取り上げたり、なにげない家屋の風景に造形
的な関心を寄せたりしている。
「京城」以外にも、済州(チェジュ)、釜山(プサン)、扶余(プヨ)、開城(ケソン)、平壌(ピョンヤン)などが盛んに描かれた。
古来の聖地であり、近代には一大観光地となった金剛山(クムガンサン)は、日韓の美術家がともに描いた画題だ。韓国の美術家は、厚い伝統が背後に控えるこの画題とどう取り組んだのか。日本人美術家は何を表現のよりどころとしたのか。同じ対象に対する、日韓の画家のアプローチや表現の違いを考察することのできる興味深い画題である。

 

3、近代人の日常
旅行者として「朝鮮」を訪れた日本人美術家の多くは、川辺での洗濯や砧打ち、かまどや白磁のある台所、伝統衣装の人々でにぎわう市場など、「朝鮮」の日常の伝統的な側面を、魅力的なモティーフとして表現した。
しかし、1876年の開国以後、朝鮮王朝、大韓帝国は近代化の激しい波を受けた。1910年の日本による併合は一層の拍車をかけ、北東アジアでも類を見ないスピードで、近代化が進んだ。
近代的建築が立ち並ぶ都市の風景。洋装のモダン・ガールやモダン・ボーイ。伝統衣装を身につけた若い女性が座っているのは、モダンな品々に囲まれた室内。先鋭なデザインを見せる雑誌や書籍。韓国の美術家は、そうした近代的な日常を生き生きと描き出している。
「景福宮、慶会楼、南大門、光化門、城壁、温突(オンドル)、妓生-名所絵葉書とガイドブックは、旅情をそそるであろう。不知不識の間に、朝鮮と云う甘い感能に浸る心を持つであろう。無理はない、しかし京城の空高く『ジェニーの家』そんなアドバルーンが上がって居ようとは思いもよらないであろう。増してアスファルトのペーブメント、そんなものの存在すら考慮の中に入れていまい。その上、パーマネントした朝鮮の娘達が、颯爽として、青春の誇りをハイヒールに乗せて闊歩する姿など、夢にすら思っていないかもしれない。」(佐藤九二男「京城風景」1938年)

 

4、グループ活動と師弟関係
1922年、朝鮮総督府は文化を旨とする統治政策の一環として、朝鮮美術展覧会を創設。日本の帝展をモデルとする同展は、「朝鮮」における「官展」として社会的に大きな影響力を持った。しかしその一方で、在野における活動も、粘り強く展開された。
1918年創立の書画協会をはじめ、韓国人による韓国人のための研究・展覧会機関が運営され、意欲的なグループ活動や批評、出版活動も展開された。
在住日本人によるグループ活動や研究機関の設置、美術雑誌の刊行も行われ、数は少ないものの、韓国人美術家と日本人美術家がともに参加・交流した活動もあった。
「朝鮮」には官設の美術学校はなく、留学を志すものは東京美術学校を目指したが、東京で私立の美術学校が増えるにつれ、文化学院をはじめ留学先は多様化をみせた。在東京の韓国人留学生による在野グループ活動も展開された。自由美術家協会には韓国人美術家が多数参加し1940年には「京城」展を実現している。美術雑誌や版画誌という媒体が、東京や地方都市と「京城」をフラットに結ぶネットワークを形成していたことも注目される。

 

5、エピローグ
1945年8月15日、日本は第二次世界大戦に敗戦し、「朝鮮」は植民地支配から解放された。1948年に朝鮮半島を南北に二分して大韓民国(韓国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立。1950年からはじまった朝鮮戦争(韓国戦争、1953年に休戦)の前後に少なからぬ数の美術家が北朝鮮に渡り、その後の動静は不分明な部分が多い。
日韓は1965年に国交正常化を果たし、韓国は漢江(ハンガン)の奇跡と呼ばれる経済復興を実現。1945年以前から活動していた美術家は美術教育や展覧会活動を牽引し、韓国美術界の発展に大きな役割を果たした。一方、敗戦により日本に引き揚げた美術家は、一部の例外を除き日本美術界では目立った活動を行わず、埋もれた存在となった場合が多い。
展覧会の締めくくりとして、戦前から注目すべき活動を展開した韓国人美術家ならびに「朝鮮」と深くかかわった日本人美術家、両者の1945年以後の作品を、限定的ではあるが紹介する。1945年以前と以後を結んで営まれた彼らの創造の軌跡は、現代を生きる私たちに、明日へ向けて共感をはぐくんでいく、ひとつのよりどころとなってくれるのではないだろうか。

※休館日について12月23日(水・祝)は開館いたします。24日(木)は閉館。年末年始は、12月26日~1月1日まで休館。1月2日より通常開館。