グレゴリウス・シダルタ・スギジョ《泣く女神》1977年
「あじび研究所」シリーズ04ーグレゴリウス・シダルタ・スギジョ「泣く女神」1977年
- 期間
- 2019年1月2日 (水) 〜 2019年3月26日 (火)
- 会場
アジアギャラリー
グレゴリウス・シダルタ・スギジョ(インドネシア)
作品名:泣く女神(Weeping Goddess)
原 題:Tangisan Dewi Bathari
素 材:チーク材(顔、胴体)、マホガニー材(手足)、皮(腕)、アクリル絵具、髪、鏡、指輪、縄ほか
サイズ:高さ233×幅77cm
制作年:1977年
作品への問いと答え、シダルタの言葉
女神はなぜ涙しているのだろうか?
西洋からの美術や大衆音楽の流入、近代化により、いまや死につつある伝統を嘆いているのです。
足元の炎は?
外国の影響によってインドネシアの大地が燃えているのです。
交差した手が意味しているのは?
胸の痛み。
鏡は何のために?
「鏡によって悪霊を追い払えると信じているのです。」
※その他のシダルタの言葉
「《泣く女神》は、伝統回帰をはたして最初に作った彫刻です。」
「インドネシア各地の装飾性を取り入れるだけでなく、技法に関しても穴の開け方や髪の毛の編み方など、伝統から多くを学びました。」
「女神は、インドネシアを支配する巨大複合企業に懇願しているのです。」
「西洋からやってきた近代文化の巨大資本によって、インドネシアに息づいていた文化が破壊されてしまったのです。そのときにわたしは、女神が涙する声を聞きました。彼女はこの大地を支配する巨大複合企業に懇願しているのです。」
グレゴリウス・シダルタ・スギジョ(インドネシア)
1932年
10人兄弟の三男としてインドネシアのジョグジャカルタに生まれる。
1941-1945年
太平洋戦争
1945-1949年
インドネシア独立戦争
1949年
ヘンドラ・グナワン率いる画塾「サンガル・プルキス・ラキャット」で学ぶ。
1950年
ジョグジャカルタに設立された「インドネシア美術アカデミー(略称ASRI。後のインドネシア芸術大学)」の1期生として学ぶ。当時は社会主義リアリズムが主流。
1951年
ASRI同期生のウィダヤットら10人程度と「インドネシア青年画家」を結成。
シダルタの分岐点1
1953-1957年
オランダの「ヤン・ファン・アイク造形芸術アカデミー」へ留学。モダニズムにおける抽象表現を学ぶ。
1957年
帰国後、「スラカルタ芸術アカデミー」を設立。ジョグジャカルタのASRI彫刻科で教えはじめる。この頃は、オランダ留学の影響で抽象的な作品(シダルタが言うところの「モダンアート」)を制作。ジョグジャカルタにおいてはじめてモダンアートを紹介するが、インドネシア共産党の下部組織レクラ(人民文化協会/Lembaga Kebudayaan Rakyat)などから厳しい批判を受ける。
1962年
結婚。後に4人の子どもをもうける。
1965年
前年にASRIを辞職したが、ブット・モフタルに誘われて「バンドン工科大学」で教えはじめる。
インドネシア美術の分岐点
レクラを中心に社会主義リアリズムが主流になる。
1965年
クーデター「9月30日事件」を契機にスカルノ大統領が失脚。新たなスハルト体制のもと、共産主義者や華僑への大虐殺がおこなわれる。
1966年
「11人のバンドンのアーティスト展」をジャカルタで開催。抽象表現が評価される。参加作家:シダルタ、サダリ、モフタル・アピン、ブット・モフタル、リダ・ウィダヤット、ピロウス、カブル、スリハディ、カルティカほか
1968-1982年
国際美術連盟のインドネシア事務局長に就任。
シダルタの分岐点2
1973年
シダルタが中心となりスタジオ「デセンタ」を設立(1980年脱退)。モダニズムを捨てて、伝統に回帰しはじめた年。ITBの同僚たちからは反対されたが、ピロウス、スタント、プリヤントらが応援。
1977年
伝統回帰後の初めての彫刻《泣く女神》を制作。展覧会のために制作した作品ではないが、その後「第4回インド・トリエンナーレ」に出品。
1978年
IAA事務局長として、福岡市美術館のインドネシア調査に協力。
1980年
福岡市美術館で開催された「アジア現代美術展」に参加。
1997年
エルガーラ・パサージュ広場(福岡市中央区)に彫刻作品《バランスと方向性》を設置。
2006年
74歳で死去。
| 会場 | アジアギャラリー |
|---|---|
| 観覧料 | 一般200円(150円) 高校・大学生150円(100円) 中学生以下無料 |
| 主催 | 福岡アジア美術館 |
| 問い合わせ | 092-263-1100 |