コレクション展

不安の時代―1990年代以降の映像表現

期間
2022年4月7日 (木) 〜 2022年9月6日 (火)
会場

アジアギャラリー

はじめに

アジアにおいて映像表現が誕生した背景や時期は、各国で異なりますが、主に1960年代から1970年代にかけて興隆した実験映画を通じて、新たな表現手法として認識されるようになりました。1980年代から、経済成長とともにテクノロジーが発展し、ビデオ機器が普及すると、映像記録メディアの主流はフィルムからビデオへと移行し、より手軽になった映像表現に関心を示す作家が徐々に増えていきます。そして1990年代に入ると、映像作品は現代美術のひとつのジャンルとして定着し、今日ではアニメーションやCGなど様々な技法も登場しているように、映像表現は日々新たな地平を切り拓いています。

21世紀の今を生きる私たちは、常に持ち歩くスマートフォンで、日々さまざまな最新の映像を当たり前に目にしています。しかし、そこで出会うのは、愉快で心地いいことばかりではありません。時には目をそらしたくなるような戦争の悲劇や世の中の不条理、そしてそこにまぎれる無数の嘘(フェイク)とも向き合わなければなりません。暴力や理不尽が絶えない現代という不安の時代において、アーティストたちは、カメラを携えて、街へ繰り出し、あるいはスタジオにこもり、世界や日常の不穏な空気を鋭敏に感じ取り、表現してきました。

本コーナーでは、「自分探し」と「記憶の交差」という2つのキーワードから、1990年代以降のアジアにおける映像作品の傑作をご紹介します。

 

Ⅰ期:4月7日(木)~6月14日(火)   (※Ⅰ、Ⅱは一部展示替あり)

自分探し―映像で見つめる私  

現代のアーティストたちは、自己を見つめる手段として、映像表現を通して自分のアイデンティティや居場所を模索し、世界と自己との関係を問い直しています。

パキスタンのバーニー・アービディは、米国留学時代のインド出身の同級生との思い出をもとに、文化や風土に共通性をもちながらも対抗意識を燃やすパキスタンとインドの関係を描き、両国の、そして自身のアイデンティティの矛盾に切り込みます。マレーシアのタン・チンクァンは、自らの目と耳を覆い、周囲とのコミュニケーションが不可能な状態でパフォーマンスに臨むことで、自己と他者を隔てる境界の存在を可視化させ、居場所を探して漂流し続ける自らの姿を記録します。塩田千春は、人間を分断する家族や民族、国家、宗教などの「壁」を自分の血液の中に見いだし、その壁を取り払おうと試みます。

これらの作品は、不安の時代の中で、映像を通して自分を見つめる「自分探し」の痕跡でもあるのです。

 

Ⅱ期:6月16日(木)~9月6日(火)   (※Ⅰ、Ⅱは一部展示替あり)

社会の戯画化―アニメーションが映す現代社会

2000年代以降急速に存在感を増したアニメーションによる映像作品は、その独自の表現技法を活かしながら、現代社会の深層に軽やかに切り込んでいます。

パキスタンのヘイダル・アリ・ジャンは、実際にパキスタンのテレビで放映された、独裁的な軍の権力者が大統領に就任した式典の一場面をアニメーション化しています。中国のブー・ホァ(卜樺)は、中国社会のダイナミックな発展のなかで広がる格差や個人と社会の対立を、さまざまなキャラクターが入り乱れる混沌としたアニメーションに表現しています。

両作品に頻繁に用いられるアニメーション特有のずれや反復の表現は、映像に軽快さをもたらす一方で、毒のあるユーモアで社会を戯画化し、不協和音のような不穏さを生み出しているのです。

記憶の交差―映像がつなぐ過去と現在

映像表現では、過去の出来事を再現したり、異なる映像をつなぎ合わせたり、編集によって作り手が時間を自在に操ることができます。そのような特徴を活かして、現代のアーティストたちは、「記憶」をテーマにした映像作品をさかんに制作しています。

沖縄の山城知佳子は、自らを通してサイパン戦玉砕を体験した沖縄の高齢者の語りを再現することで、他者との記憶の共有や継承を試みています。ベトナム出身で難民としてアメリカに渡った背景をもつディン・キュー・レは、1975年のベトナム戦争終結時、ベトナムから脱出しようとした米軍のヘリコプターが燃料不足のため次々と海へ沈んでいった出来事をアニメーションで再現しました。台湾のチェン・ジエレン(陳界仁)は、閉鎖された縫製工場を舞台に、そこで働いていた人々の記憶や痕跡を、工場の歴史と重ね合わせて浮かび上がらせました。
これらの作品は、映像を通して、作品の中に過去と現在をつなぐ記憶の交差点を作りだしているのです。