あじびコレクションX―③
「越境する美術家―郭仁植(クァク・インシク)と柳景埰(リュ・キョンチェ)」
- 期間
- 2021年9月23日 (木) 〜 2021年12月25日 (土)
- 会場
アジアギャラリー
はじめに
このコーナーでは、日本で美術を学び韓国の美術界を牽引した柳景埰(ユ・キョンチェ)と、日本に移住し日本の美術界で活動した郭仁植(クァク・インシク)という2人の美術家による1962年に制作された作品を紹介します。また、彼らの画業を通して、当時の日韓の美術状況を振り返ります。
韓国の抽象美術
韓国の抽象美術の歴史は約100年前にさかのぼります。1910年代、日本の統治が始まった韓国に西洋式の油彩画技法と西洋美術の情報が日本を経由して導入されると、1930年代頃から韓国の画家たちのあいだで、朝鮮らしいテーマをフォービスム的に表現した作品が盛んに制作され始めます。いっぽうでキュビスムの影響を受けた抽象表現の萌芽もみられるようになります。
太平洋戦争が終結し、大韓民国が1948年に建国されると、翌年の9月には政府主導の「大韓民国美術展覧会」(通称:国展)[1]が創設されます。これは国家の再建を進める動きと結びつきながら巨大な組織として発展し、戦後の動乱期に活動する美術家たちの発表の場となり、ここで紹介する柳景埰(ユ・キョンチェ)も国展を中心に活動していきます。
その後、1950年代になると、柳景埰(ユ・キョンチェ)ら朝鮮戦争(1950-1953年)を経験した美術家たちは、過酷な経験と伝統的な古い価値観に疑問を持ち、自由な精神性の表現である欧米の抽象美術に傾倒。韓国抽象美術は1950年代後半に隆盛を迎えます。この隆盛を支えたのが、1957年に反国展を掲げて設立された〈現代美術家協会〉や〈モダンアート協会〉、国展のなかでも進歩的な意識を持つ者たちで設立された〈創作美術協会〉などで、後に韓国美術界を代表する美術家たちを輩出した主要団体でした。このため、韓国現代美術は1957年から始まったという声もあるほどです。
1960年代になると、フランスを中心に興隆した美術運動の「アンフォルメル(非定型の意味)」が韓国の作家たちに大きな刺激を与え、その影響を受けた抽象表現が追求されますが、1960年代の後半からは、都市化や消費文化を背景に作品のなかに日常的なオブジェを持ち込む「反芸術」的な傾向の作品も生みだされてきます。
そして1970年代は、極限まで要素を削ぎ落し最小単位のモチーフを反復しながらモノクロームの色彩で描く「単色画」や、モノ(物質・物体)そのものの存在感に重きを置く表現が多く見られ、欧米のミニマル・アートとの相関がみられるようになります。このように韓国の抽象美術は、時代の変化とともに日本や欧米美術の影響を受けながら展開していきました。
[1] 戦時中に朝鮮総督府が主催した官設展覧会である「朝鮮美術展覧会」の規則と伝統を母体にした展覧会。
柳景埰(1920-1995)
柳景埰(ユ・キョンチェ)は、1920年に現在の朝鮮民主主義人民共和国の南西部にある黄海南道海州に生まれ、若くして画家を目指しました。1940年、21歳で鮮満学生美術展に入選したことを機に、当時、西洋近代美術を本格的に学べる日本への留学を決意。東京にあった緑陰社画学校で油彩画を3年間学び、油彩画の技術を習得した柳は、朝鮮美術展覧会に入選。卒業後は韓国に戻り、慶尚南道初中学校の教師として勤務しながら緑陰社画学校の夏期・冬期講習を受けるために日本と韓国を行き来します。1940年代前半、柳はパリ留学のために教職を辞めますが、戦後の混乱のため渡航を断念します。
その後は、ソウル大学教育大学校の講師となり作品制作を続け、韓国国内の公募展に積極的に出品しました。柳の美術家人生の転機となったのは、1949年11月に開催された第1回国展に3作品を出品し、そのうちの《廢林地近傍》が最高賞である大統領賞に選ばれたことでした。この受賞で自信をつけた柳は、捨てきれない夢であったパリ行きを実現すべく再度教職を辞め、パリへの渡航費を捻出するために初等学校の美術教科書の出版に没頭したといわれます。しかし1950年、朝鮮戦争の勃発によって教科書出版計画が頓挫し、失意のなか家族で居を転々とすることになります。
1951年には、生計のために国防部政訓局美衛隊の従軍画家団の一員として従軍。総勢40名ほどいた従軍画家たちの多くは油彩画を描く画家たちであり、彼らは戦争画やポスター、雑誌の挿絵などを描いて生活費を稼いだといわれています。そんな状況のなか、柳はソウル大学校の講師となりました。
1953年に朝鮮戦争が休戦になると、国展ほか官設展覧会が再開され、柳も意欲的に出品を重ねながら着実に画家としてのキャリアを築いていきました。1957年には、韓国文化の発展に貢献した文化人に送られるソウル特別市文化賞を受賞。同年には、国展のなかでも進歩的な意識を持つ者たちを集めて〈創作美術協会〉を設立しました。その後も韓国国内外の展覧会に数多く出品し、1965年の第8回日本国際美術展(毎日新聞社主催)ほか、1967年に開催された第9回サンパウロ・ビエンナーレ国際展に招待されるなど、韓国美術界を代表する存在として知られていきました。1977年には韓国国民勲章冬柏章を叙勲され、1980年には大韓民国芸術院賞を受賞。1985年には、アジア現代美術の創造と振興、発展に寄与することを目的に掲げたアジア国際美術展を、福岡の画家である秋吉資夫(あきよしすけお)氏とともに創設したのです。
柳は生涯を通して官設展覧会を中心に活動した画家でした。また、1985年に退官するまで、ソウル大学美術大学校で教鞭をとるなど後進の育成に注力し、さらには韓国美術の発展のために政界にまで活動範囲を広げた画家でした。
《季節》
本作は、1962年に開催された第11回国展に出品されたものと思われ、大統領賞を受賞した作品《廢林地近傍》から13年後に制作された作品です。《季節》というタイトルの通り、乾燥した韓国の寒い季節を連想させるオーカー系の色彩を中心に、部分的に赤や緑などの植物を思わせる差し色が画面に散りばめられています。さらに画面下部には、地面に3つの石のようなモノが置かれるように描かれ、そこからつづく先に建物の外壁を思わせる色面が配置されています。また画面上部には植物を連想させる有機的な線が踊るように描かれています。画材も油彩画で使われる硬毛筆ではなく、全体にペインティングナイフを使用して描いており、上下左右の大胆なストロークから、非定型を志向するアンフォルメルの影響を受けた作品であるといえます。
柳の作品は、1949年の第1回国展出品作品から1959年頃までを前期、それ以降を後期と分けることができます。
初期は風景画を多く描いていましたが、1957年以降は自然や風景のなかに鹿や鳩などの平和を象徴する動物を描くなど、抒情的な要素が加わります。後期以降は、《季節》と同様に具体的な描写対象がなくなり、抒情的な内面を切り詰めたような形態に変化していき、1980年代以降には抒情性が一切排除され、極度に単純化された抽象表現に変化していきます。このように柳の抽象表現は突然出現したのではなく、具体的なイメージから抽象への過程を踏みつつ自然に展開されていったことがわかります。
なお本作が描かれた1960年代の国展出品作家の大部分が、ゴッホやゴーギャン、セザンヌなどのポスト印象派の流れか、欧米の抽象表現の流れを汲んだ作品を発表しており、本作は後者の傾向をよく示す作例になります。
郭仁植(1919-1989)
郭仁植(クァク・インシク)は、1919年に現在の大邱(テグ)広域市南西部に位置する慶尚北道達城郡に生まれました。1937年に父親の勧めで早稲田大学商学部へ留学するために来日しますが、日本美術学校(前身は日本美術研究所)に入学。林武や猪熊弦一郎などから絵画技術を学び、在学中の1940年に第10回独立美術協会展に油彩画《モダンガール》を出品し入選をはたしました。同年には日本美術学校研究科に進学しますが、太平洋戦争の不安から韓国へ帰国、大邱にある三(み)中井(なかい)百貨店で初個展を開催しました。その後、1943年から5年間の韓国生活で子供を授かりますが、突然妻に先立たれるなど苦難の時を過ごします。
1949年には、日本での活動を再開するために密航船に乗り単身で渡日しますが、生活は貧しく、神戸市長田区のゴム靴工場で働きながら生計を立てたそうです。1951年には、戦後再興された第36回二科展に入選し、その後も公募展への出品を意欲的に続けました。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると、反共政策を強化した李承晩政権のなか、実兄の郭源植が南北朝鮮統一運動に参加していたことが政府側に知られ、政府軍に撲殺される事件が起きます。また同時期に叔父が共産主義者と疑われ処刑されるなど、凄惨で衝撃的な事件が重なりました。この事件を知った郭は、東京の韓国大使館で自身のパスポートを破り捨てたという逸話が残っており、この事件後から1982年まで、一度も韓国に戻りませんでした。
日本で暮らし始めた30代の郭は、頻繁に引っ越しを繰り返し、時には友人画家のアトリエに居候したりして生活をしていました。1957年には、戦後の前衛美術の発展に大きな役割をはたした読売アンデパンダン展の第9回展に出品しますが、1960年を最後に突然公募展への出品を止めてしまいます。その後、郭は東京を拠点とした祖国統一運動に積極的にかかわり、1961年には在日本大韓民国民団と在日本朝鮮人総連合会系列の作家の作品を集めた連立美術展に参加するなど、民族和解運動に注力しました。
1965年には第8回日本国際美術展(毎日新聞社主催)に韓国代表作家として参加し、日本での作家活動が軌道に乗りはじめます。その後、1968年には日本で初めて韓国現代美術を本格的に紹介した韓国現代絵画展(東京国立近代美術館主催)に出品、1969年にはサンパウロ・ビエンナーレ国際展に参加するなど美術家としてのキャリアを確実なものにしていきました。
1960年代後半から「モノ」自体をそのまま扱う表現にたどり着いた郭は、同時代の現代美術に影響を受けながらも自らのアイデンティティにもとづいた表現を模索しようと実験を繰り返してきました。近年では、美術団体や組織に属さず、現代美術市場からも距離をとりながら作品の探求を続けていた郭の独自性と作品の意義を見直すための研究や再評価が進んでいます。
《作品62-505》
1960年代の高度経済成長期、日本の街中には工業化社会を象徴するような大きなガラス壁を使ったビルが出現します。郭は1960年代初頭から数年間、このような社会状況を背景に、ガラスを割る作品を発表してきました。
本作には防火設備用のガラスとして建築物などに利用された亀甲網入りガラス板が用いられていますが、この素材について、郭は当時よく利用していた新宿駅の周辺に建つ高層ビル群から着想を得たといいます。また、ガラス板の右下部、左上部の二か所がハンマーで割られ、蜘蛛の巣状にひびが入っていますが、割れたガラスを麻布に定着させることで、ガラスを割る行為とその過程こそが「重要である」と示しています。
郭の初期作品を振り返ると、1940年の第10回独立美術協会展に出品した《モダンガール》は、ポスト印象派の表現の影響を受けた女性の半身像でしたが、1950年代には社会的なヒューマニズムにもとづいたシュルレアリスム的な絵画を制作しており、1950年代末になるとシュルレアリスムから抜け出すためにアンフォルメル絵画へ展開していきます。1960年代に入ると作品が大きく変化し、本作のような工業製品(ガラスや真鍮、金属部品など)を用いる作品が登場します。このように郭の美術家としてのキャリアは油彩画から出発しており、特に1960年代以降の作品は、素材の質感や色、ガラスを割る位置とその亀裂など、無作為でありながらも絵画性が強く感じられるのが特徴です。また、ガラスを割る行為には、工業化社会への批判が込められていると同時に、在日コリアンとして日本社会に溶け込む透明な自分自身の存在を、ハンマーで割ることで刻印しようとする意志が感じられます。
1960年代後半の日本では、「もの派」という石や木、鉄などの素材にほとんど手をくわえず、人の作為を施さずにモノの存在を際立させることを探求した美術動向が生まれました。郭は、もの派が生まれる以前からモノを主にした表現を探求しており、先駆的な作品を多く残したことにはまちがいありません。晩年はモノとの長い対話の結論として、墨に顔料を混ぜた彩墨画を描き始め、東洋的な空間に回帰するような作品を残しました。
おわりに
柳景埰(ユ・キョンチェ)と郭仁植(クァク・インシク)は、生涯を通して日韓の狭間で作品を生みだしてきた「越境する美術家」でした。また、ここで取り上げている作品はどちらも1962年に制作されたものですが、当時の日本は高度経済成長期に突入した頃で、1964年に開催される東京オリンピックの準備期間として社会全体のインフラが急速に整備されていった時期でした。いっぽう韓国では、軍事クーデターによる厳しい独裁政権が敷かれ始めるなど、まさに光と影のような対照的な状況でした。こうした両国の状況を背景に、日本で学び晩年は韓国社会で高い評価を受けた柳景埰(ユ・キョンチェ)と、日本と在日コリアン社会で作家活動に専心するものの近年まで十分な評価を得られなかった郭仁植(クァク・インシク)もまた、光と影のような対照的な存在だったのです。
参考文献
*『韓国現代美術史―1900年代の導入と定着に、1900年代今日の状況まで』呉光珠著 (悦話堂美術選書出版、1979年)
*『韓国の抽象美術―20年の軌跡』(季刊美術編、1979年)
*『韓国近代美術史 甲午改革から1950年代まで』洪善杓著、稲葉真以・米津篤八訳(東京大学出版会、2019年)
*『柳景埰 RYU KYUNG-CHAI』(図書出版、現代画廊発行、1990年)
*朴淳弘「郭仁植の割れたガラスは再び元の状態に戻ったのか―1960年代ガラス作品の背後にある意味について」(『日本学』第54集、2021年)1-30頁
*朴淳弘「郭仁植の《泉》連作研究―〈幻触〉〈もの派〉を生んだ美術風土のなかで(上)、(下)」(『あいだ』248、2019年)
*『QUAC-誕生100周年記念 郭仁植』(韓国国立現代美術館発行、2019年)
*『韓日現代美術50年の礎 郭仁植の世界』(韓国光州市立美術館発行、2002年)